オマージュ/パスティーシュに込められる思い

オマージュとか、パスティーシュとかそういうものに込められる思いはなんだろうか。

自分はR&Bの畑で育ってきたから、すぐに湧き出る答えがある。リスペクトだ。

模倣というのは最大の尊敬の表現なのかもしれない。そして本当は自分のものではなく、誰かに習ったり、インスピレーションをもらったりしたものなのだという痕跡を残すべきものである。音楽にしても文章にしても、盗んだものだなとわかってしまうから。リスペクトが示せれば、むしろ愛されたりするものだ。

 

最近の自分の気になるパスティーシュは、カズオ・イシグロだ。

カズオ・イシグロは、アガサ・クリスティを深く尊敬していたらしい。

こんな記事を読んだ。

book.asahi.com

 

このごろ記憶に悩まされる自分に気づく。

そして思い出される記憶は自分の脚色と、自分の恣意的な選出にいつも色付けられている、本当に意思的で主観的なものであることに気づく。

過去を悩むことが自分にとっては損なことが多い。悲しい思い出やうまく行かなかったことを何度も思い返してしまうからだ。

記事でいう「記憶の嘘」は、自分の肩をそっと撫でてくれるような優しさがあった。

「事実というのは、誰もが認めるものを指す」「そうです。だが、事実の解釈となると、またちがってきます」と表されるように、人間の記憶は曖昧で頼りなく、誰もが自分なりのフィルターを介して事物を見ているからだ。

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過去の恨みを忘れない生き物だという。人間もまた、過去の妙な出来事を覚えていたりする。ふとした違和感、振り返ってみて気づく意味。

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「記憶。記憶のある人ならいくらでもいましたわ。ただ困るのは、記憶はあっても、それはつねに正しい記憶とはかぎらない」──にあるように、あらゆる関係者の回想を聞くほど疑問は大きく膨れ上がる。信用できない事実、ふとした噂話。ただそれらのなかにも真実の糸はひっそりと繋がっている。

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断片的で曖昧な記憶を頼りに自己欺瞞の語りが展開され、回想と現在のシーンが入り交じる。そして読み手は早晩、気づくだろう。仔細につくりこまれた主人公の妄想世界に陥っていると。こうした「記憶」の曖昧さや不確実性は、人間の理不尽さを表象する。これらが物語を読み解く醍醐味と相まって、さらなる深みを味わえるのだ。

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「わたしがまだ覚えている思い出になんらかの秩序をもたせようとしている今夜でさえ、どれほど多くの思い出がぼんやりとしたものになってしまったかに改めて驚いている」と、おぼろげな記憶をなんとか掘り起こそうとする。しかし、その描写さえ信じていいかはわからない。思い出すという行為を介すことで、事実はフィルタリングされてしまうからだ。

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戦争、自然災害、疫病──歴史上あらゆる困難が、世界を、私たちの人生を変えた。今も変わらず、常に新たな壁が立ちはだかる。だが私たちはその経験を、記憶を、どれだけ対峙し、受け止め続けることができるだろうか。風化にあらがい、教訓を後世に伝えることが大事な一方で、記憶の風化と変化もまた、日々生きる人間にとって避けられないことでもある。そして私たちは記憶を書き換えたり忘れたりしながら、なんとか正気を保って生きていく。そんな悲しくて、でも愛おしい人間の真理が、両者の作品から浮かび上がる。

記事があまりにも素敵で、カズオ・イシグロアガサ・クリスティもいくつか買ってしまった。早く読みたい。

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

 

2020年12月28日