建築について 1 [ヨーン・ウッツォン]
建築について、最近俄然興味が湧いている。
数学的な論理性と芸術的な感性がこれほどに交わるのは、建築くらいなのではないか。そんなふうに最近は思い始めた。
素人目には芸術的な感性が目立って見えるけど、この芸術性を人生をかけて味わうことができたなら、どれほどまで人生は美しくなるのか、と思う。
だから、気が向いたら建築についての自分の興味と知識をここには書き残していこうと思う。あっさり書いていくのかどっしりやっていくのか、まだまだわからないけれど、こういう習慣を人生で作っていきたい。
今日はヨーン・ウッツォンについて。
シドニーのオペラハウスの設計者として広く知られる。
彼の素敵な言葉に以下のようなものがある。
「建築家にとって非常に大切なのは、ものごとのあるがままの姿に恋をすることであり、フォルムやスタイルと闘うことでは無い」
ポスト現代的で好きだ。形相や表象にがんじがらめになってしまう今の時代の、凝り固まった緊張を緩めてくれる。
自然を手本にする彼の感性的なスタイルについて、もっと学んでみたいなと思う。
こんな本を読んでみようかなと思っている。
建築を学んだり知ることは哲学や思想を味わうようなものだ。
文章を読むのとはまた違った感覚を研ぎ澄ましていく営み。
人生の時間を使い切るには、ちょうどいい遊び道具かもしれない。
2020年12月28日
オマージュ/パスティーシュに込められる思い
オマージュとか、パスティーシュとかそういうものに込められる思いはなんだろうか。
自分はR&Bの畑で育ってきたから、すぐに湧き出る答えがある。リスペクトだ。
模倣というのは最大の尊敬の表現なのかもしれない。そして本当は自分のものではなく、誰かに習ったり、インスピレーションをもらったりしたものなのだという痕跡を残すべきものである。音楽にしても文章にしても、盗んだものだなとわかってしまうから。リスペクトが示せれば、むしろ愛されたりするものだ。
カズオ・イシグロは、アガサ・クリスティを深く尊敬していたらしい。
こんな記事を読んだ。
このごろ記憶に悩まされる自分に気づく。
そして思い出される記憶は自分の脚色と、自分の恣意的な選出にいつも色付けられている、本当に意思的で主観的なものであることに気づく。
過去を悩むことが自分にとっては損なことが多い。悲しい思い出やうまく行かなかったことを何度も思い返してしまうからだ。
記事でいう「記憶の嘘」は、自分の肩をそっと撫でてくれるような優しさがあった。
「事実というのは、誰もが認めるものを指す」「そうです。だが、事実の解釈となると、またちがってきます」と表されるように、人間の記憶は曖昧で頼りなく、誰もが自分なりのフィルターを介して事物を見ているからだ。
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過去の恨みを忘れない生き物だという。人間もまた、過去の妙な出来事を覚えていたりする。ふとした違和感、振り返ってみて気づく意味。
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「記憶。記憶のある人ならいくらでもいましたわ。ただ困るのは、記憶はあっても、それはつねに正しい記憶とはかぎらない」──にあるように、あらゆる関係者の回想を聞くほど疑問は大きく膨れ上がる。信用できない事実、ふとした噂話。ただそれらのなかにも真実の糸はひっそりと繋がっている。
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断片的で曖昧な記憶を頼りに自己欺瞞の語りが展開され、回想と現在のシーンが入り交じる。そして読み手は早晩、気づくだろう。仔細につくりこまれた主人公の妄想世界に陥っていると。こうした「記憶」の曖昧さや不確実性は、人間の理不尽さを表象する。これらが物語を読み解く醍醐味と相まって、さらなる深みを味わえるのだ。
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「わたしがまだ覚えている思い出になんらかの秩序をもたせようとしている今夜でさえ、どれほど多くの思い出がぼんやりとしたものになってしまったかに改めて驚いている」と、おぼろげな記憶をなんとか掘り起こそうとする。しかし、その描写さえ信じていいかはわからない。思い出すという行為を介すことで、事実はフィルタリングされてしまうからだ。
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戦争、自然災害、疫病──歴史上あらゆる困難が、世界を、私たちの人生を変えた。今も変わらず、常に新たな壁が立ちはだかる。だが私たちはその経験を、記憶を、どれだけ対峙し、受け止め続けることができるだろうか。風化にあらがい、教訓を後世に伝えることが大事な一方で、記憶の風化と変化もまた、日々生きる人間にとって避けられないことでもある。そして私たちは記憶を書き換えたり忘れたりしながら、なんとか正気を保って生きていく。そんな悲しくて、でも愛おしい人間の真理が、両者の作品から浮かび上がる。
記事があまりにも素敵で、カズオ・イシグロもアガサ・クリスティもいくつか買ってしまった。早く読みたい。
2020年12月28日
悲しい結末の場合
素敵な夜で始まった一瞬の恋愛が、悲しい結末で終わった場合のことを思う。
例えば、男が女を悲しませたり、傷つけたり、怯えさせてしまって、物語が強制終了してしまった場合。
男と女に残るのはどんな感情だろうか。
男には、喪失感が残っている。
思い出が深まる前だったから、すぐに上書きできてしまいそうな薄さが辛いだろう。
どうしてこうなってしまったんだろうと、自分を責める気持ちが溢れて止まらない瞬間があるかもしれない。
その前の日常に戻って、これが本当の姿だと思うと、いままでに戻っただけだという思いの反面、なにが真実かもはやわからない感覚にさいなまれる。
自分がよくわからない時間、自分を責める時間を通りすぎたら、どんな自分になってしまうのだろうか。
そういう意味で、不安で後悔の募る年末を過ごすのだろう。
2020年12月27日
物語を求める
ふと自分についてここ一日二日考えてしまうけれど、自分は物語を求める人間だということに気づく。
恋愛にも友情にも然るべく物語を求めている。その物語を生きる中で出会う人といい結末に向かわせるために、色々とやっている。
物語は決して一人では進まない、だから一人で進む物語に物足りなさを覚えてしまう。
誰かとなにかを成し遂げたり、考えたりすることに深い魅力を感じている。
最近気づいた恋愛の深い魅力はそこなのだろうな、と思ったりする。ただ、他の人にとっての恋愛は、そういうものではない事も考えられるし、多分殆どの人にとってそうではないことに気づくと、難しい。
駆け引きの軽薄さみたいなものに、気付かされてしまう。
勉強に昨日今日とやる気が出なかったのは、物語っぽさがクリスマスには必要だったからだろう。
2020年12月26日
まだ子供と言っていいのだろうか
自分の未熟さに気づくときに、20代にもなってなんて言い訳すればいいのだろうか。
まだオトナじゃないから、なんて言っていいのだろうか。
本当は来年から働いてないといけないのに、社会人になれていない自分は、普段の中でなんの劣等感もないけれど明日も明後日も一生懸命働く友人たちの前では、まだまだ未熟だなと認めざるを得ない。
もっと歳を重ねたその日には、あのときの悩みなんてちっぽけだったのだろうかと笑うんだと思うけれど、今の自分がどうしようもなく小さく思える瞬間だってある。
社会人になることについて、本当は悩んでいるわけじゃない。
一人の女すら大切に愛せない自分に、今はうんざりしている。
俺は男として弱すぎる。社会が求めている男らしさ、とかそんなことを問題にしたいんじゃない。
ただ自分が心のなかで好きだと認めた女と、そばにいることのできない自分の虚しさを感じるばかりだ。
来年の自分、それが無理でも30代の自分がもっと素直で愛らしい人間でいられるように、毎日堅実に生きたいと願う。
2020年12月24日