割愛の語源

割愛の語源について、知っているだろうか。

割愛とは、本当は省略したいものをやむなく省くことを意味する。なので、省略する行為に加えてその主体の思う「もったいないけど...」という愛おしい気持ちが込められた、愛らしい言葉なのだ。

語源について2つの説がある。

一つは、仏教用語として用いられていたとする説である。

古くは鎌倉時代の仏教説話集たる沙石集。「割愛出家の沙門、何ぞ世財をあらそはん」という歌がある。現代語訳するならば、「世俗への愛着を断ち切って出家した修行僧が、なぜ世俗の中でもてはやされる財産などに執着することがあろう」となるだろう。

坊主にとっての俗世への思いが愛着なのであれば、それを切り離すことが愛着となろう。なくなく置いていかなくてはならない、というニュアンスは確かにそのままである。

もうひとつは、養蚕用語として用いられていたとする説である。

蚕は雄と雌が交尾の際に、固く結び付けられて何日も離れないことがままあるらしい。何日にも渡って交尾を続けると、疲れて弱ってしまい蚕が死んでしまうおそれがあるから、交尾する蚕を引き離していたらしく、この作業について割愛と言っていたというのである。

どちらもしみじみと趣深いものである。割愛という言葉から漏れる慈愛に、ふと気づいた夜。意味を調べてよかった。

己を記憶から引き剥がす

運動ができないから、寂しいから、穏やかな記憶にすがろうとする。

自分が穏やかに寄りかかることのできる人を思い出し、その人が果たして自分のものではないことに気づき、孤独に包まれる。

記憶の中にいる女の人々は俺に微笑む、妄想の醜悪さを感じる。

母性を心から無理に追い出さず、今の生活に幸せを見いだせたら、と思う。

本当の安息はまだ訪れないけど、自分の中の自分に生きていけたら幸せだな、と思う。

2021年1月1日

傷つけて、傷つけられて

自分が人を傷つけるような人間であることに失望する、そんな時間もあった。自分への嫌悪と反省が心のなかでぐるぐると回り、終わりなく続いていたように思う。

ただ一方で深く傷つけられていたのも事実で、俺は悲しい顔をしていたとも思う。

さらけ出しあった後の拒絶は深く古傷をえぐられるようだった。

傷つけた恋愛と傷つけられた恋愛、どっちが忘れられないのだろうか。

加害者にも被害者にも自分はなってしまう苦しさに気づいて、彼女もまたその両面に苦しんでいるのではないかと、ふと思ったとき、泣きたくなった。

ごめんねも言えなくて辛い。

でもこういう時間は年内で終わりにしたいと思う。願う。

2020年12月31日